マムシ流 つれづれ草 第20回

【近石真介さん 親愛なる先輩であるあなたに、哀悼の誠を捧げます】

 10月5日、俳優の近石真介さんが亡くなった。享年91歳。
 近石さんと言えば、俳優として活躍し、声優としては、『サザエさん』の初代・フグ田マスオ役、『はじめてのおつかい』をはじめとする数々のナレーション、ジャッキー・クーパー、ジェリー・ルイス、ジェームズ・キャグニーといった俳優の吹き替えなど、数々の仕事で活躍されてきた。
 そして、なんと言っても、今も続く『ミュージックプレゼント』で最初にパートナーを務めてくださって、オレがラジオの世界で生きていくきっかけを作ってくれた人だよ。
 近石さんが亡くなった10月5日は、奇しくも『ミュージックプレゼント』が始まった、10月6日の前日だ。『ミュージックプレゼント』は1969年に始まって今年で53周年だよ。

 近石さんとオレは、この番組で初めて出会ったんだ。オヤジが二人とも大工とか、落語好きとかいろんなことで、最初からウマがあったんだよ。
 番組当初は、二人で探り探りだったけど、近石さんは、きめ細かくて温かい人だったな。オレが中継、近石さんはスタジオだろ。あの頃は通常、中継現場からの放送というのは、そっちに任せて、スタジオのパーソナリティは、お茶を飲んだり、トイレに行ったりという小休止の時間だったんだよ。
 ところが近石さんは、「マムシさんだけ外でがんばってるのはダメだ」ってことで、中継に参加してくれる掛け合いのスタイルにしてくれたんだ。オレの中継の模様を聴いて、「それ、どんな人?」「そこは、どういう店なの?」なんてね。
 それでオレと中継現場にいる一般の人たち、そして近石さんというトライアングルができて、会話が絶妙ないい放送になったんだよ。この手法は近石さんならではだったよな。
 当時、番組が終わると毎晩、二人で電話で反省会をしたりしてな。でも、その時いつも「マムシさんは、そのままでいいんだよ」と言ってくれた。優しい人だったな。
 その後、この掛け合いのスタイルは大沢悠里ちゃんにも受け継がれて、悠里ちゃんも、絶妙にオレをいじってくれたから、二人で30年も続いたんだよ。

 近石さんと二人でやったのは、実は10年足らずなんだけど、いろんなことがあったよ。
 印象に残っているのは、『よど号乗っ取り事件』の時だ。オレが、乗っ取り犯たちに対して、「彼らの気持ちもわからないでもない」というようなことを言ったら、近石さんは、それに同意して受け取ってくれた。そうしたら、その後、TBSには右翼から脅迫の電話が散々来たんだよ。当時のディレクターが右翼の事務所へ出かけていって説明してくれて、事なきを得たんだけどな。近石さんはもともと左翼運動に加担して早稲田を除籍になった人だから真実は何かを言いたいし、曲がったことが大嫌いな、真っ直ぐな人だったんだよ。
 そんなこと以外にも、放送でのエピソードを数え上がればキリがないよ。
 西荻窪で中継した時には、近石さんの恩師が現れて、「近石くん、元気か」とかなんとか声かけられて、近石さんはスタジオであたふたしたり、オレと二人して番組に遅刻したり・・・、とにかく、思い出をあげればキリがないよな。

 近石さんとの付き合いは『ミュージックプレゼント』だけじゃないんだよ。もちろん公私共になんだけど、いろいろな面で、オレは近石さんの影響を受けているな。
 たとえば、『楽園終着駅』という舞台。これは、劇作家だった近石さんの奥さんが書いて、近石さんも自ら演じた演劇なんだけど、今でいう認知症の老人たちが主役で、ある意味、今につながる老人問題を取り上げた作品としては先駆的なものだったといえると思う。
 近石さんは、この作品で縁のできた、日本老年行動科学会の井上勝也先生とオレをめぐりあわせてくれた。その後、それがきっかけで、オレは聖徳大学で、介護について教えるようになったし、井上先生とは『老人学』という共著を出すことにもなったんだ。今、オレが元気なジジイババアを作りたいと考えるようになった源泉にも近石さんは関わっているということだよね。
 
 近石さんとは、ここ半年、なかなか会えなかったけど、電話ではよく話をしていたんだ。
 そして、近石さんが亡くなった直後には、ご子息から電話をいただいた。
 「安らかに眠るように逝きました」ということだった。
 近石さん自身は、まだまだやりたいことがあったかもしれない。でも、愛する息子夫婦に看取られての大往生は、お幸せだったと思うよ。どうか、ゆっくりと休んでください。

 あっちへ行けば、永(六輔)さんや弦さん(若山弦蔵さん)が歓迎してくれるだろうよ。3人、それぞれ色は違うけど、近石さんと同じように、心からラジオを愛していた人たちだからな。
 オレは、立川談志や小林桂樹さん、日野原重明先生のように、オレの人生のターニングポイントにいつも関わってくれた大切な人として、これからも機会あるごとに語り継いでいきたいと思っているよ。
 近石さん、あらためまして、ご冥福をお祈りいたします。

P.S. オレと悠里ちゃんは、まだ、もう少しがんばっていろいろやりたいと思ってるから、あんまり早く迎えに来ないでくださいね、ハハハ。

追伸
それと俺がラジオで「ババア」と言うようになったのは実は近石さんのおかげなんだよ。
俺のお袋が亡くなったあと、放送現場にお袋と同じ年代の婆さんがいたんだ。
あまりにも元気にお喋りするので「(俺のお袋は亡くなったのに)元気だなこのババアは!」とつい言ってしまったんだ。
それを聞いていたスタジオの近石さんは優しくフォローして、会話を楽しんでくれた。
それがきっかけになってラジオで俺が「ババア」と言う毒舌が定着したんだよ。
近石さん、改めてありがとうございました。
  

 



昭和45年ごろ


平成29年

 

(構成・伊波達也)

〜一覧へ戻る〜